20170322
この、時間を分刻みで削るように消費する社会の中で、より速い交通手段を用いることは殆どの場合ベターな選択とされ、時間のかかる交通手段は無駄と言われかねない。つまり時間の無駄だと。
それが安価であるとしても、多くの人がお金より時間を取る。
なんだかこのまま「モモ」の話にもっていけそうなところでもあるけれど、今日はそうはせず進める。
わたしが毎度毎度、時間のかかる交通手段をとる理由は、
吝嗇であることや乗り物に揺られるのが好きということ、時間が長くなるほどに旅している気持ちが得られることもそのうちに挙げられるとはいえ、それ以上に時間を存分に満喫したいからかもしれない。
人はこの行動を時間の浪費行為と呼ぶが、つまりその裏を返せば時間を贅沢に使いたいということだ。時間を好きなだけ無駄遣いできる。それも、身動きの取れぬ閉鎖空間であるとはいえ、自分の好きな使い方で。
音楽を聴くもよし、車窓に流れる景色を見るもよし、乗り物を感じるもよし、本を読むもよし。
この四つを同時に行う時に訪れるその満足感は、まぁ分かる人には分かればよい。
20170318
一昨日見た夢を紹介します。
私たちは私たちを人類だと思っているけれど、それが果たして本当なのかは、私たちが私たちを人類と見なし続ける限り分かることはない。
私たち人類を「私たち」とした時に、姿形はまったく私たちのようで、しかし「私たち」を認識しない人類をここでは「彼ら」と呼ぶ。
「私たち」は人類という沽券にかけて、「彼ら」との接触をあちこちで試みる。私もそのうちの一人の青年として、「彼ら」の病院に向かった。
そこで私は「彼ら」のうちの一人の青年に出会う。病院の案内係である彼の目が、一瞬私を捉えたのを見逃さなかった。私は彼に話しかけた。
話しかけて分かったことは、彼の目には私は弱りかけて松葉杖に縋るひどく小柄な人に映っているということ。
私の目から見ると、どこをどう見ても、弱っているそぶりなどないし、松葉杖に縋ってもいない。ましてや私は「私たち」の中でもこれといって小柄な方ではない。
ここに彼と私の認識のズレがあることがわかった。とはいえ、私の知り得る限り「私たち」が「彼ら」に認識されたことはこれまで一度もない。この人類初(!)の好機を逃してはならない、と慌てて二の句を継ぐ。
私の発した言葉は確かに彼の耳に届いたはずなのに、目の前にいる私を彼は突然キョロキョロと探し始める。どうやら彼の目から私が消えてしまったようで、突然のことに彼も驚いているらしい。
私もまた驚いた。彼に話しかけてからその間、私は一歩たりと動いていないのだから。
ぴょんぴょん飛び跳ねたり大声を上げたり、と様々な方策を試みるも効果がなく、彼はすっかり私の姿を見失ってしまった。彼はすぐにまた「彼ら」の案内係としての対応に戻る。
途方にくれるもどうしようもなく、「彼ら」を眺めてただその場に突っ立っていると、彼が再び私に気付いた。少しホッとしたような笑顔を浮かべる彼を見て私は悟った。
「彼ら」と「私たち」は同時に存在するが、本来その存在する次元が異なっており、同軸上に存在し得ないのではないか。
どこか「インターステラー」っぽさもあるこんな夢。
夢の時間は短かったものの、文字に起こすと長くなってしまった。とはいえ、夢の中の時間の流れは加速度的でもあるように思われるのでなんともいえない。
まさか人類というカテゴリへの問いを夢で行うなんて。
そういった意味では、これまで見た夢の中でも一、二を争う壮大さを持った夢だったな。
20170317
今日は割によく歩いた。
ここんところ用事があって出歩く時でもなければ散策する機会もなく居たので、それが家の周りであっても久しぶりである。唯一ゴミ捨てルートだけは通っていたものの。
変わったもの、変わらないもの、それぞれ色々あるけれど、ふとしたところに昔を思い出す記憶の粒が漂っているような気がした。
手に掴めば、遠い日の思い出が瞼の裏に一筋蘇るような。
掴んだかと思ってもなかなか掴めない、そんなもどかしさの中で、
一瞬きらりと光ってはまたぼんやりとしてしまう記憶の粒は、あるようなないような、そんな淡い色をしていた。
そんなつもりないのにちょっと粋がった散文崩れになってしまった。
意味はあるようでなくて、思い出は薄く伸びてゆく。