20160506


ここ最近、気も手も抜いてたので
たまにはガツンと、昔開示話でもいきますか。





誰しも幼き頃は、想像の世界に遊び、空想でものを食べる、みたいなところがあるのではないかと思うのですが

例に漏れず、わたしもそうでして。

空想の中で惑星を一つ作って、その星の設定を練っては楽しんでいたんですね。


その星の地形から季節から、そこに住む生物や民族、そして言語に至るまで。

地球からの行き方とか、そこら辺は酷く曖昧なんですが。よくも知らない科学技術を中途半端に取り入れるわけにもいかなくって。

今になって考えるとそれが結構、凝ってたように思います。
今も昔も、そういうくだらないことへの活力だけはあるので。へはは!



いつの頃からかは忘れましたが、その星の新聞なんかも発行したりしていました。

その新聞や設定を記した何か、今もけっこう、残っているんです。
たぶん見るとゥワハーーーーー、となるのでもう今となっては一人では見れませんが。

その新聞、不定期に書いてたもので、
それも、叔父叔母が来るとなるとその度急いで間に合わせていたように記憶しています。



この叔父叔母が、とにかく楽しんでくれるんです。それが子ども心に嬉しかったんでしょうね。

本気になって子どもと遊んでくれる大人って、案外貴重でした。

子どもってそういうところ鋭いから、相手の大人が真剣かそうでないかくらい分かっていて。

テキトーに流されてばかりの中で見えた一筋の光のような、そんな一縷にすぎない心からの反応っていうのは、やっぱり嬉しいもんだったのでしょうな。


叔父叔母にはいい迷惑だったのかもしれませんが、そんなことなんて感じさせないくらいに、いつだって真摯に向き合ってくれました。

そんな叔父叔母は今も変わりなく、わたしの話で笑ってくれます。
今もまた、何かを見せる度、聞かせる度、ちゃんと聞いてくれて、それで笑ってくれる。

そういう相手がいたこと、本当に有り難いことだな、と思わずにはいられません。



一緒に楽しんでくれる相手がほしい、というよりかは、


自分が自分の世界の中で楽しんで完結していれば別にそれでいいけれど、

とにかく、好きなことや楽しいことを人と分かち合いたい性であるようなので、
そういう意味で相手とはまた違う、
「その楽しさを聞いて、ただ分かってくれる人」を求めていたのかもしれないですね。


人にそこまでの深入りを求めていないとすると、自分の世界は己のみで自己完結しているわけで、

そう考えると、まぁ…本当にそもそもが独りなんだな、なんても思ってしまいますけど、元々そういう性なのでしょう。

自己完結型人間。そんな妙に冷めた奴もいるんだろう。
図らずも自己解析が進んでしまった。



そういう、空想世界に生きる幼少期って
小二病、でもないし夢遊病、も意味が違ってしまうし、何だろう……

夢想病とでも言えばいいんでしょうか。


以上、軽めにではありますが、
空想世界に生きた時代の話でした。