20170411
綺麗な言葉遣いをしようと意識すればするほど、わるい言葉遣いになってしまうのは何故なのでしょう。口が反骨なのか。どうして抗うのか。口と頭との抗争を起こさんとしているのだろうか。
頭では分かっていても体が言うことを聞かないというのはもどかしいものですね。
いったい、頭の中に司令塔が二つありでもするのか。天使と悪魔じゃないんだから。
録り溜めている番組や積ん読本、家計簿につけていないレシートの山、後でやることリストといった類は知らぬうちに精神力を削っていく。
気にしがちでなければそうでもないのだろうけど、通知の1があるだけで気になって仕方のない身からすればきっと相当削られているのだろうな。
ゲームでいうところの毒状態だから、そのダメージは蓄積されてゆく。
それではここでいう毒消しは何なのか。毒が効きにくくなるためにはどうすればいいのか。イマイチそれらの最適解を導けずにいます。慣れくらいしか浮かばない。
毒消しの話はまたいつかどこかで。
というのも、もう眠いのでここらで切り上げて、眠りの世界とこちらとの境界付近で続きを考えよう。
20170410
なんか忘れているような気がしながらもそれが何かを突き止めぬまま、久々にまとまって空いた時間を手に入れたのをいいことに、いつの間にか寝付いていました。
2017年4月10日はそんな小さな幸せに代えさせていただきたく。
by 2017年4月11日18:37、書き忘れに気付いたわたし
20170409
ちょっとしたお出かけをしただけでも楽しい。
日々同じことの繰り返しでは心が老化する、と前にテレビで見ましたがそうなのだろうか。たしかに何の変化もない繰り返しではつまらないし、面白みを見出すには気付きが必要となってくる。
天国も同じことの繰り返しなら、それは地獄なのではないだろうか。
という話をどこかで目にした覚えがあるけれど、それを考える度にゾッとするし、その話を知ってからこれまで、天国に行きたいとは思えない。
終わることのない繰り返しの日々は地獄。終わりが来なければいいのに、と何かの折に望む度、終わりがあるからこそよいのだ、とこの話を思い出しては自らに言い聞かせている。
20170407
昨年はほぼひたすらにグウタラ生活をしていたので、なんだか生を持て余していたように思う。
逆に、目に見えるほどの余裕もないような最近は、なんだか全力で生を消費しているような気すらしてしまう。
ただ何となくなあなあで徒らに生を浪費してしまうのは、果たして生を「消費する一つの無形物」であると考えた時に、その一つの生のすべてを使い切っているといえるのか。
そんなところにまでモッタイナイ精神が働いて、どうにもそんなことを考えてしまったりする。
いや欲を言えば生を持て余すくらい余裕に満ちた暮らしをしていたいよ。
ここに堕落欲とモッタイナイ精神とのせめぎ合いが起きる。